イラン(旧ペルシャ)とロシアの関係は、数世紀にわたる複雑な歴史を有します。特に19世紀には、ゴレスターン条約(1813年)とトルコマーンチャーイ条約(1828年)によって、ペルシャは多くの北部領土をロシアに割譲しました。これらの条約は、イランの領土と主権に深刻な影響を及ぼし、国内での反ロシア感情の高まりを見ることとなりました。20世紀に入ると、1917年のロシア革命と同時期のイランの政治動乱は、一時的に関係の断絶をもたらしましたが、ソビエト連邦の成立後は新たな次元での接触が始まりました。
ゴレスターン条約は、1804年から1813年まで続いたロシア・ペルシャ戦争の結果として締結されました。この戦争は、ロシア帝国がカフカス地域の支配を拡大しようとしたことに対し、ペルシャが反発したことから始まりました。戦争はロシアの優勢に終わり、ペルシャは戦争で占領された領土の多くをロシアに割譲することを余儀なくされました。この条約により、現在のジョージア、アゼルバイジャン、ダゲスタンの一部がロシアの手に渡りました。
トルコマーンチャーイ条約は、1826年から1828年までの第二次ロシア・ペルシャ戦争の結果として締結されました。ペルシャは、ゴレスターン条約で失った地域を取り戻すために戦争を再開しましたが、ロシア軍には敵わず、さらに多くの領土を失うことになりました。この条約により、ペルシャは現在のアルメニアの全域とアゼルバイジャンの残りの部分をロシアに割譲し、重い賠償金を支払うことになりました。
これらの条約は、ペルシャの国境を大きく変えるとともに、ロシアの南部への進出を加速しました。ペルシャにとっては領土と主権の重大な喪失であり、国内の政治的・社会的不安を引き起こす要因となりました。一方で、ロシアはこれらの条約を通じてカフカス地域における支配を固め、その後の大国政策において重要な地政学的優位を確保しました
冷戦中、イランの戦略的位置はアメリカとソビエト連邦の間で重要な焦点となりました。1953年のモサデグ首相の政権転覆後、イランは西側に傾斜しましたが、1979年のイラン革命はこのバランスを再び変えることとなりました。革命後、イランは西側諸国と距離を置くようになり、ソビエト連邦とは一定の協力関係を築いていきましたが、両国間には依然として疑念が残りました。
冷戦終結後、イランとロシアは、特に安全保障とエネルギー分野での協力を強化しています。イランは国際的に孤立する中で、核技術や軍事技術の供給源としてロシアを頼りにしています。ロシアは、イランの核開発計画に技術的支援を提供し、西側諸国の制裁下でもイランとの経済関係を維持しています。このようにして、両国は国際的な圧力に対抗するための戦略的同盟を築いています。
地政学的には、シリア内戦が両国の協力を顕著に示す事例です。ロシアとイランは、アサド政権の支援を通じて、西側の影響力に対抗し、中東における自らの影響力を拡大しようとしています。さらに、2020年には、ロシア、イラン、および中国が共同で軍事演習を行い、この地域での協力をさらに強化する意志を示しました。
イランとロシアの関係は、複雑な歴史的経緯と共に、世界情勢や地域の安定性に大きな影響を与えています。その関係性は、政治、経済、軍事各面での深い連携によって特徴づけられ、世界の多極化の進行中において、さらなる発展が予想されます。この動向は国際政治の未来において重要な要素となるでしょう。