NHK大河ドラマ『べらぼう』の中で登場した「足抜け」という言葉。遊女の「うつせみ」が間夫(まぶ)と共に足抜けを試みるも、結局は女郎屋の若い衆によって捕まってしまう場面が描かれました。
では、「足抜け」とは具体的にどのような意味を持ち、捕まった場合どのような結末を迎えるのかを詳しく解説していきます。
「足抜け」とは、遊女や花魁が女郎屋(遊郭)から逃げ出すことを指します。
遊女は、前借金(まえがりきん)と呼ばれる借金を負っており、一定の年季(ねんき)を務めるか、誰かが身請け(みうけ)しない限り自由の身になることはできません。そのため、借金を返すことなく逃げ出す行為を「足抜け」と呼びました。
当時の遊郭は、遊女を厳しく管理し、その脱走を阻止するためにさまざまな制度が整えられていました。遊女の外出は厳しく制限され、遊郭の出入り口には見張りが配置されていたため、足抜けを成功させることは極めて困難でした。
特に吉原遊郭の場合、外へ出るには「吉原大門」を通過しなければならず、この門は厳重に管理されていました。そのため、足抜けを成功させることは非常に難しかったのです。
遊郭は厳しく管理されており、遊女達は自由に外へ出ることはできませんでした。しかし、それでも以下のような方法で足抜けを試みる者がいました。
加えて、逃亡した遊女を捕まえる専門の 捜索専門の男たち もおり、遊郭側の面子にかけて必ず逃亡者を捕まえるシステムができあがっていました。
『べらぼう』の劇中では、うつせみのために間夫が町娘を利用して通行切手を入手するという手法が描かれました。町娘が吉原大門をくぐらずに間夫が通行切手を持ち込み、それを遊女に渡すことで、足抜けの計画が立てられたのです。
足抜けが発覚すると、遊郭側は「若い衆」と呼ばれる男性従業員を使って逃げた遊女を捕まえに行きました。もし捕まった場合、以下のような厳しい処分が待っていました。
遊郭の運営側にとって、遊女は「財産」と同じ扱いでした。そのため、足抜けは重大な裏切り行為とみなされ、厳しく取り締まられたのです。
歴史上、足抜けに成功した遊女の例もありますが、それは稀なケースでした。成功するためには、
などが必要でした。しかし、当時の遊郭は逃げた遊女を追いかけるネットワークが広く、成功率は極めて低かったとされています。多くの場合、逃亡生活は長く続かず、捕まった後は厳しい報復を受ける運命にありました。
江戸時代後期になると、遊郭制度に対する批判が高まり、遊女の待遇改善を求める声が増えていきました。明治時代に入ると政府は遊郭制度の見直しを進め、徐々に遊郭の廃止へと向かう流れになっていきます。
明治時代中期になると、遊女の人権が徐々に認められるようになり、「足抜け」をしなくても自由になる道が開かれていきました。しかし、それでも制度が完全になくなるまでには時間がかかり、足抜けを試みた多くの遊女たちは悲劇的な運命をたどることが多かったのです。
「足抜け」とは、遊女が女郎屋から逃げ出す行為を指し、発覚すれば厳しい罰が待っていました。『べらぼう』のうつせみのように、足抜けは簡単には成功せず、多くの遊女は再び捕らえられ、さらなる苦境に追い込まれる運命にありました。
しかし、江戸時代後期になると遊女の待遇改善を求める動きもあり、やがて遊郭制度は衰退していきます。「足抜け」は、そうした厳しい時代を生きた遊女たちの、自由を求める必死の行動だったのです。
足抜けの歴史を振り返ることで、当時の遊女たちが置かれていた過酷な状況を改めて考える機会となるでしょう。