江戸時代の遊女・玉菊(たまぎく)を偲び、新吉原で行われた灯籠供養「玉菊灯籠(たまぎくとうろう)」は、吉原三景容のひとつとして伝えられています。玉菊は享保年間(1702年 – 1726年)に新吉原の名高い太夫であり、彼女の美貌と才芸は当時の江戸文化に深く刻まれました。
玉菊は、江戸新吉原の角町中万字屋勘兵衛に抱えられた太夫で、以下のような才色兼備の女性として知られていました。
享保11年(1726年)7月、玉菊の死後、盂蘭盆の時期に新吉原の茶屋では、軒ごとに燈籠を掲げて彼女の霊を弔いました。これがやがて「玉菊灯籠」と呼ばれるようになり、吉原の風物詩のひとつとなりました。
この灯籠供養は、単なる慰霊ではなく、江戸の花街文化の象徴としての意味合いも持ち、多くの客や遊女たちが参拝し、賑わいを見せました。また、吉原の灯籠は特別に華やかに装飾され、遊女たちがそれを囲むように舞い踊る光景は、まるで極楽のようであったと記録されています。
この祭りはその後も継続され、江戸市中の多くの人々が見物に訪れました。また、一部の記録では、吉原の灯籠祭りが他の花街にも影響を与えたとも言われています。
享保13年(1728年)、玉菊の三回忌に二代目十寸見蘭洲(ますみ らんしゅう)が「水調子(みずちょうし)」という河東節を語り、玉菊の追善供養を行いました。しかし、
「中万字でこの曲を弾くと玉菊の霊が現れる」
と伝えられ、玉菊は江戸の怪談の一部としても語り継がれました。後の伝承では、灯籠の光の中に玉菊の面影が浮かぶと噂され、霊験あらたかな存在としても信じられるようになりました。
一部の資料には、玉菊が生前に愛した香が夜風に乗って漂うと、その場所には彼女の霊が宿るとも伝えられています。吉原の古老たちは、「今も夏の宵、吉原を歩くと、ふと玉菊の影を見たような気がする」と語っていたとも言われます。
玉菊の物語は後に歌舞伎や講談に脚色され、多くの人々の間で語り継がれました。その伝説は、江戸時代の遊郭文化と芸能の中で生き続け、現在でも興味を引く題材となっています。
歌舞伎では、玉菊の悲恋をテーマにした演目が作られ、彼女の華やかな一生と哀れな最期が描かれました。講談でも、怪談風の話として人気を博し、遊女の霊が現れるという恐ろしくも美しい逸話として、江戸庶民の心を捉えました。
また、現代の小説や映画においても、玉菊の物語は題材として取り上げられることがあり、その美貌と哀愁を秘めた存在は今もなお魅力的な伝説として残っています。近年では、彼女を題材にした舞台作品やドラマも制作され、現代の観客にも感動を与えています。
加えて、一部の歴史研究では、玉菊の存在が吉原文化の発展においてどのような影響を与えたのかを考察する論文も発表されており、学術的な関心も高まっています。
「玉菊灯籠」は、吉原の名花・玉菊の霊を慰めるために始まった供養の風習でした。しかし、それは単なる供養ではなく、江戸の風流や怪談、そして遊郭文化の一端を象徴する存在となりました。現代でもこのような伝説が語り継がれることは、当時の人々がどれほど玉菊を愛し、そして畏れていたかを物語っています。
この伝説を通じて、江戸時代の遊郭文化や芸能の奥深さを知ることができ、当時の庶民がどのように遊女を敬い、また神聖視していたのかを伺い知ることができます。
また、玉菊灯籠が象徴するものは、単なる霊的な伝説にとどまらず、江戸時代の遊郭文化の栄枯盛衰そのものとも言えるでしょう。吉原の歴史を知る上で、この伝説は今も貴重な文化遺産として語り継がれています。
NHK大河ドラマ『べらぼう』第9回でこのテーマが取り上げられたことで、玉菊の伝説が再び注目されることになるでしょう。