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稲荷町(いなりまち)とは?:べらぼう

稲荷町(いなりまち)とは?:べらぼう

『べらぼう』の「稲荷町」とは?;意味と背景を解説

NHK大河ドラマ『べらぼう』の中で、ある登場人物が「稲荷町」という言葉を罵りのように吐き捨てるシーンがあります。吉原の遊郭で若木屋の主人が、正体を隠して店に上がり込んだ馬面太夫(うまづらだゆう)たちに激怒し、「二度と大門くぐんじゃねぇぞ!稲荷町が!」と怒鳴りつけた場面です。雨の中、馬面太夫と門之助は裸で放り出されてしまい、このとき視聴者は「稲荷町」とは何なのか不思議に思ったのではないでしょうか。

本記事では、この「稲荷町」という言葉の意味や背景について、江戸時代の歌舞伎役者の世界と絡めてわかりやすく解説します。歴史用語がドラマでどのように使われているのか知れば、『べらぼう』がもっと楽しめること間違いありません。

「稲荷町」の意味するもの

歌舞伎座にある稲荷神社(歌舞伎稲荷大明神)。江戸時代の芝居小屋でも、出入口近くに稲荷明神を祀った社があり、最下級役者の控え部屋がそのそばにあったことから「稲荷町」という呼び名が生まれた。

そもそも「稲荷町(いなりまち)」とは、歌舞伎の楽屋で最下級の役者を指す業界用語です。語源は、芝居小屋(劇場)の楽屋口付近に祀られていた稲荷明神(お稲荷さん)のそばに、下っ端役者たちの待機部屋があったことに由来します。彼らは通行人や見物客など舞台の「その他大勢」的な端役専門で、動物の着ぐるみ(「四つ足」と呼ばれる馬や牛など)の役もこなし、さらには裏方の雑用までも兼ねていました。いわば劇場を支える何でも屋ですが、役者としてはピラミッドの最底辺です。そこから転じて、「稲荷町」は比喩的に才能のない役者や大根役者への蔑称としても使われました。現代で言えばエキストラ専門の卑称のようなもので、劇中で若木屋の主人が吐き捨てたのも「所詮は稼げもしない下っ端役者が!」という侮蔑の意味合いだったのです。

江戸時代の歌舞伎役者の階層

江戸時代の歌舞伎の世界は徒弟制度による厳格な身分・序列社会でした。舞台に立つ役者にも明確なヒエラルキーが存在し、大きく分けて以下のような階層があります。

  • 花形役者:人気と実力を兼ね備えた看板スターです。座頭(一座のトップ)に次ぐ格とされ、芝居の目玉となる役者たちを指します。彼らは贔屓(ひいき)筋も多く、劇場の宣伝看板や番付の目立つ場所に名前が大書きされました。いわゆる主演級の華やかな役者たちです。
  • 名題(大名題)役者:座元から**名題(なだい)**と認められた正式な幹部俳優を指します。大名題はその中でも特に大看板の役者のことで、一座の主要メンバーである幹部クラスの俳優の称号です。彼らは芸名が芝居の外題看板(演目の看板)に大きく掲げられることを許され、重要な役どころを演じます。花形と重なる部分もありますが、名題役者は公式に等級が保障された役者です。
  • 大部屋役者:名題に昇格していないその他大勢の役者たちです。劇場では一つの大きな楽屋部屋(大部屋)に集めて雑居させられたことからこう呼ばれました。身分的には名題の下に位置し、与えられるのは脇役・端役が中心です。江戸の芝居小屋では大部屋は三階にあることが多かったため、彼らは俗に「三階さん」とも呼ばれました。大部屋役者から這い上がって名題に昇進するのは極めて難しく、歴史上でも初代中村仲蔵などごく一握りしか成功例がなかったといいます。それほどまでに上下の壁は厚かったのです。

このような階層の最底辺に位置するのが前述した「稲荷町(いなりまち)」、すなわち大部屋役者の中でも新人や下働き同然の役者たちでした。彼らは正式な役者扱いすら危うい存在で、舞台でもセリフのない走り役や賑やかし程度の出演が中心でした。当然給金も安く、先輩から雑用を命じられる毎日です。そんな最下層の役者に対し、「稲荷町」という呼称は蔑みを込めて使われ、「お前なんざ稲荷町だろう」といった具合に、芸の未熟さや身分の低さを嘲笑する意味合いを持ちました。「稲荷町」と呼ばれるのは、役者にとって最大級の屈辱だったのです。

『べらぼう』での「稲荷町」発言の意味

ドラマ『べらぼう』第11話では、売れない若手時代の馬面太夫と門之助(いずれも歌舞伎役者)が、身分を偽って吉原の遊郭に遊びに行くエピソードが描かれました。二人が運悪く上がり込んでしまった店は高級店の若木屋。そこにたまたま門之助の顔を知る客が居合わせたため、二人が役者だと露見してしまいます。怒り心頭の若木屋の主人は、彼らに向かって「嘘ついて上がり込みやがって!役者なんぞに上がられたらウチの畳が総とっかえにならあ!二度と大門くぐんじゃねぇぞ!稲荷町が!」と怒鳴りつけました。要するに「身分を偽って店に上がり込みやがって。このままじゃ役者風情に踏まれた畳なんざ全部取り替えだ!二度と吉原の門をくぐるんじゃない、この稲荷町め!」という調子で、一介の役者ごときが遊女と遊ぶとは言語道断だと罵ったのです。その勢いのまま主人は彼らを裸同然で表に放り出し、馬面太夫はすっかり面目を失いました。この出来事がトラウマとなり、劇中で馬面太夫は「吉原嫌い」になったと語られています。

明治時代の新吉原大門(正門)の彩色写真絵葉書。「吉原」は堀に囲まれ、大門に番人がいて唯一の出入口となっていた。江戸当時、歌舞伎役者は公式には「四民(士農工商)の外」とされ社会的身分のない存在だったため、こうした遊郭への出入りも厳しく制限されていた。
このシーンからも分かるように、当時の役者の社会的地位は極めて低いものでした。武士・農民・職人・商人の「四民身分」に属さない役者や芸人は「河原者」などと蔑まれ、世間の表舞台からはみ出した存在だったのです。歌舞伎役者が勝手に吉原に出入りすることは御法度で、発覚すれば若木屋の主人のように容赦なく叩き出されました。実際、『べらぼう』劇中でも「役者は分として四民の外、世間様の外だからだろ」とセリフで説明されています。また、吉原の常連である御金蔵(おかねもち)たちは、自分たちが高い金を払って遊ぶ花魁を貧乏な役者風情に抱かれることを極度に嫌いました。劇中では若木屋で居合わせた客が「俺の馴染みの遊女を役者なんかに抱かせるのか」と野暮な文句をつけたため、主人が激怒して二人を制裁したと語られています。さらに幕府も「人々が役者に憧れて本業を疎かにしないよう、あえて役者を四民の外にした」という建前で、役者の社会的待遇を低く押さえつけていました。人気が出れば大金を稼げる夢のある世界ではあるものの、「だからといってみんなが役者になりたいなどと思わぬように、体制側が意図的に冷遇した」というわけです。このように役者は特殊な身分で、吉原など公認の遊里(遊郭)では特に蔑視・差別の対象だったため、若木屋の主人も「稲荷町が!」と罵倒したのでした。

まとめ

以上のように、「稲荷町」とは江戸時代の歌舞伎世界で最下層に位置する役者を指す蔑称であり、その背景には厳しい身分制度と社会的な差別がありました。ドラマ『べらぼう』の一場面では、この言葉を通じて当時の役者の悲哀や、封建社会の身分観がリアルに描かれています。現代の私たちから見ると理不尽に感じられる扱いですが、それだけに歴史劇の中でそうした言葉が出てくると臨場感がありますね。歴史用語の意味を知ってから改めてドラマを観ると、若木屋の主人の怒号にも隠された背景が見えてきて、物語を一層深く楽しめるでしょう。『べらぼう』のような作品を通じて、江戸時代の歌舞伎や遊郭の文化を知るきっかけになるのもまた一興です。当時の役者社会の厳しさに思いを馳せながら、ぜひ今後の展開も楽しんでみてください。

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