江戸時代、吉原遊郭において「年季明け(ねんきあけ)」の意味は遊女(ゆうじょ)や花魁(おいらん)が決められた奉公年数を満了し、自由の身になることです。これは、遊郭に売られた女性たちにとって、一つの大きな節目でした。しかし、それまでの道のりは非常に険しく、多くの遊女が年季明けを迎えることなく命を落とすことも少なくありませんでした。
遊女が吉原に売られるのは、幼少期や思春期が多く、特に10歳前後で売られるケースが一般的でした。年季の長さは通常15年ほどとされていましたが、実際には様々な要因で延長されることが多く、
そのため、遊女(花魁)が年季明けを迎える頃には20代半ばから後半になっている場合が多かったとされています。また、規則上の年季が満了したとしても、借金が残っていれば出ることは許されず、実際には自由の身になることが極めて難しい状況でした。
しかし、実際には多くの遊女が年季明けを迎える前に亡くなってしまいました。その主な原因として、
加えて、遊女の中には精神的なストレスに耐えきれず、若くして心身を病んでしまう者も多くいました。そのため、無事に年季明けを迎えられる遊女は決して多くはなかったのです。
年季明けを待たずに遊郭から出られる唯一の方法が「身請け(みうけ)」でした。これは、
という形で行われました。特に、裕福な商人や武士が遊女を身請けし、妻や妾にするケースもありました。ただし、身請けが叶うのは一握りの人気遊女に限られ、多くの遊女にとっては夢のような話でした。
また、身請けが行われる際には、遊郭の主人との交渉が必要となり、莫大な金額が要求されることもありました。一部の身請け話には悲劇もあり、客が約束を果たせず、希望を持たせられた遊女が絶望の末に命を絶つことさえもありました。
無事に年季明けを迎えた遊女の多くは、
しかし、遊郭での経験が世間での結婚に不利に働くことも多く、幸せな人生を送れる遊女はごくわずかだったとも言われています。中には、かつての遊郭のしがらみから逃れられず、別の遊郭に転身する者もいました。またいわゆる夜鷹になる者もいました。
また、季明けしたその後も、他の仕事につく能力も無く経済的な困難に直面することが多く、一時的に自由の身になったとしても、最終的には生計が立たず遊郭に戻らざるを得ないケースも珍しくありませんでした。
「年季明け」は遊女にとって自由を得る大きな節目でしたが、それを迎えられる者は限られていました。遊郭に連れてこられる前にいたふるさとへ戻ると言ったことはきわめて希であったようです。
このように、遊女にとっての年季明けは単なる「自由の獲得」ではなく、それまでの過酷な人生と、その後の不確かな未来の狭間で迎えるものだったのです。