アルゼンチンと言えば、タンゴやサッカー、豊かな自然が思い浮かぶかもしれません。しかし、この国の本質を理解するには、その人口構成に着目する必要があります。特に注目すべきは、19世紀後半から20世紀初頭にかけてのヨーロッパからの大規模な移民の波です。
当時、アルゼンチン政府は国家発展のためにヨーロッパ移民を積極的に奨励しました。イタリアやスペインからの移民が特に多く、彼らは新しい文化と伝統を築き上げると同時に、経済的成長にも大きく貢献しました。この移民政策は、アルゼンチンを多文化国家として形成する重要な要因となりました。
アルゼンチンに白人が多い理由は、主に19世紀と20世紀初頭の大規模なヨーロッパ移民に起因しています。以下の点が特に重要です。
19世紀後半から20世紀初頭にかけて、アルゼンチン政府はヨーロッパ移民を奨励しました。これは、国の人口を増やし、経済発展を加速するための戦略でした。
特にイタリアとスペインからの移民が多く、これらの国からの移住者はアルゼンチンの人口の大部分を占めるようになりました。
当時、多くのヨーロッパ諸国では政治的、経済的な不安定さがあり、多くの人々がより良い生活を求めて新天地を目指しました。
アルゼンチンは、比較的安定した政治状況と、広大な農地や経済的機会を提供していたため、多くの移民にとって魅力的な目的地でした。
移民たちはアルゼンチンの文化に大きな影響を与え、独自の文化と伝統を形成しました。イタリアやスペインの影響は、食文化、言語、習慣など、今日のアルゼンチン社会の多くの側面に見ることができます。
また、これらの移民は比較的早期に現地の文化に同化し、多民族国家としてのアルゼンチンの基盤を形成しました。
この大規模な移民の波が、今日のアルゼンチンの人口構成における白人の割合が高い主要な理由です。この移民の歴史は、アルゼンチンのアイデンティティと文化の多様性に深く根ざしています。
アルゼンチンの先住民族の数が極端に少ない理由は、歴史的な要因によるもので、以下の主要な点が挙げられます。
スペイン人による植民地化が始まって以降、先住民族は病気、戦争、奴隷化などによって大きな打撃を受けました。ヨーロッパから持ち込まれた疾病に対する免疫がなかったため、多くの先住民が命を落としました。
さらに、植民地政府による土地の奪取や、経済的・社会的な圧迫も、先住民族の数の減少に寄与しました。
19世紀にアルゼンチンが独立を達成した後、国家統一と領土の拡大を目指す政策が採られました。これに伴い、先住民族の土地が政府によって奪われ、多くの先住民族が排除されたり、強制的に同化されたりしました。
特に、1870年代の「砂漠の征服」と呼ばれる軍事キャンペーンでは、多くの先住民族が殺害され、彼らの土地が国家によって奪われました。
生き残った先住民族の多くは、ヨーロッパ系アルゼンチン人による主流文化に同化するか、あるいは社会の周縁部に追いやられました。これにより、先住民族の言語や文化は衰退し、彼らの存在が社会から忘れ去られることとなりました。